『通訳翻訳ジャーナル』記事

翻訳姿勢 (随筆)

言葉への愛着とともに言葉を畏れる心を忘れずにいたい
『通訳翻訳ジャーナル』 19987月号 Translation World (No. 37) 掲載
JTS代表取締役 James A. Lockhart


専門業界の生きた表現と格闘できること
それが産業翻訳の醍醐味

「犬走り」という言葉をご存知だろうか。道路や堤防などに沿って走る細い平地をさす。数年前、私はこのコミカルな表現に、ある建築文書を英訳する過程で初めて出会った。さっそく調べて「berm」と訳したが、発注担当者の方が「きっと質問がくるぞ」と待ち構えておられたことを納品後に知った。この一つの単語がキッカケとなって、その方との有意義な会話がはずみ、伝統建築技術とともに息づいてきた日本の建築用語のいくつかに出会うこともできた。このように、各種専門業界の第一線で日夜活躍されている発注担当者の方々との交流、ときには双方のプロ意識をかけた打ち合いを通して学ぶことは大きい。的確な専門用語を日々伝達の武器として使っておられる方々の生きた表現と格闘できること――それが、産業翻訳に携る醍醐味のひとつであると実感する毎日である。

産業翻訳者に欠かせない要素とは

17年前、私は日本語別科の留学生として来日した。2年後、スウェーデンの留学生仲間の紹介で、ある翻訳会社から仕事をもらい、はじめて翻訳のアルバイトを経験した。産業翻訳を生業にしようと決意させたのは長男の誕生だった。その息子もこの春中学2年生になった。この14年間の拙い経験をふまえて、産業翻訳者に欠かせない要素を以下に挙げてみたいと思う。

まず翻訳を志す段階で唯一不可欠の要素に捉えられがちな一般的な語学力。私もご多分にもれず、かなりなレベルまで習得できたと自他ともに認める日本語力を駆使し、あとは専門の辞書を必要に応じて揃えれば、英訳は何とかなるだろう……と思っていた。しかしこの安易な姿勢からは言葉の置き換え作業による産物しか生まれず、厳しい産業翻訳では通用しないことをほどなく思い知ったものだ。語学力は、おそらく4分の1か5分の1をしめる要素にしか過ぎないといえる。

次に目的言語の文章力を挙げたい。英訳であれば英語、和訳であれば日本語である。原文を咀嚼し訳出する、つまり原文の書き手の意を汲んで目的言語で書くのである。したがって、実際の訳文を紡ぎ出す力は、目的言語の文章力なのである。

そして専門知識。A言語、B言語ともに明るい特化した分野を持つことが非常に大事である。どの専門分野も日進月歩、とどまることなく変動している。常に自分の専門知識を新鮮な旬の状態に保つ努力が、それぞれの専門業界での信頼を築くといえる。特化分野を明確に持つ翻訳者ほど、特化分野以外の翻訳をすることの怖さを熟知しているものだ。

調査力、これも大事だ。辞書類が充実し、インターネットという有り難い情報源もできたとはいえ、豊富な想像力と鋭いカンを働かせて、的確な表現を求めて執念深く調べる技術があってこそ、である。この倦まず弛まず調べる根気は、翻訳者の翻訳者たりうる資質といえるだろう。この根気を支えるのは、不明な箇所に出くわした時、その場しのぎのツジツマ合わせや勝手な思い込みをせず、「分からない」と正直に認識できる誠実さだと思う。言葉への、そして依頼主への誠実さ。そう、優れた翻訳者に悪い人はいないのだ……と声を小さくして言っておこう。

最後に、プロとアマを分ける繊細な気配りについて。成果品を対象者や利用形態に最も適したカタチに仕上げる訳出技術。われわれ翻訳者は、個性豊かな夥しい言葉たちを雇い口にのりする者たちなのだ。せいぜい適材適所を心がけ、的確な判断力を磨きたい。

調子にのって列挙してしまったが、すべては自分自身への確認作業でもあった。まだまだ挙げたい要素はあるが、いい加減にしておく。思えば私を翻訳業にかりたてた長男は、いたいけな赤ん坊からニキビ花盛りの中学生に成長したが、わが翻訳技術の成長はどうであったか?ただ多くの先輩や仲間、力ある発注担当者の方々に支えられ、よい訓練の機会にも恵まれたことへの感謝を感じるばかりである。少年時代、アメリカで憧れを抱いた日本で、翻訳に勤しむことのできることは、この上ない喜びである。言葉への愛着とともに、言葉を畏れる心を常に忘れず、精進してまいりたい。


James A. Lockhart 紹介

米ニュージャージー州出身。西ドイツで5年間遊学の後、1981年来日。1984年からフリー翻訳者を経て、㈱ダイナワードで日英翻訳のシニア・エディター兼パソコンLAN担当として5年間勤務。平成4年に独立、㈱ジャパン・トランスレーション・サービスを設立し、現在に至る。

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